BADLAND BLACK

Customizing Euro-Style Only

走るということ

自分自身と、帰るべき場所を知るために

歩きながら考えごとをすると、机に向かっていたときには見えなかった道筋が、ふと見えてくることがある。散歩が思索を深めるという話には、私も深く頷く。けれども私の場合、それ以上に頭が冴えわたる時間がある。ハーレーダビッドソンにまたがり、一人で走る時間だ。遠出とは限らない。身支度を整えてハーレーを車庫から引き出し、仕事の合間に高速道路を数時間走って戻ってくる。決して手軽なことではないが、それでも私は、何度でもその時間を求めてきた。

走り出す前、心にあるものはその日によって違う。差し迫った問題を抱えていることもあれば、気がかりなことや、胸を弾ませる楽しみがあることもある。何ひとつ思い煩うことなく、ただ走りたくてエンジンをかける日もある。ひとたびアクセルを開ければ、それらは潮が引くように遠のいていく。生身のまま風を受け、重い車体を高速で操るオートバイは、乗り手に一瞬の油断も許さない。意識はおのずと前方の路面へ向かい、いくばくかの緊張と共に、感覚だけが静かに研ぎ澄まされていく。

そうして走り終えてみると、出かける前と同じ物事が、違う角度から見えていることがある。もつれていたものがほどけていたり、重く見えていたものが軽くなっていたり、ぼやけていたものが輪郭を帯びていたりする。不思議なものだ。答えを求めて走り出したわけではないのに、である。

オートバイで走ることの魅力は、速さやスリルにあると思われがちだ。それも間違いではない。けれども私がこの乗り物から受け取ってきたものは、その先にある。速度が増すほどに、心はかえって静まっていく。張りつめた緊張の只中で、思考はむしろ澄んでいく。逆説めいて聞こえるかもしれないが、こうして感覚が、そして思考が研ぎ澄まされていくことこそが、オートバイで走るということの本当の意味なのではないかと、私は考えている。

回り道の始まり

もともとオートバイには何の関心もなかった。若い頃の私は音楽に没頭し仲間とロックバンドを組んで、それ以外のことにはほとんど目を向けなかった。教習所に通い始めたのも、ハーレーダビッドソンに惚れ込んだバンド仲間と行動を共にしたかったという、ただそれだけの理由である。

ところが、車体を操る感覚を覚えていくうちに、自分の中で何かが静かに動き始めた。二十七歳でハーレーダビッドソンを手にしたとき、それが後の人生の大半を決めることになるとは、もちろん知る由もなかった。

風の中で

ヘルメットをかぶり、グローブをはめ、革のジャケットとブーツで身を固める。季節を問わず欠かせない、転倒に備えた装いである。重い車体にまたがってエンジンをかけ、アクセルを開けた瞬間から、日常とは異質の時間が始まる。

正面から途切れることなく押し寄せる風と、ヘルメットの内側で鳴りやまない風切り音。前を行く車、車線を変えてくる車、路面の継ぎ目や轍。そのすべてを一人で受け止め、一人で判断し、操作し続けなければならない。判断を誰かに預けることはできず、わずかな気の緩みは、そのまま身の危険につながる。

静かな緊張の中で、余計なものは一つずつ削ぎ落とされていく。残るのは、自分と車体と道、そして時折ふと浮かぶ、自分自身への問いだけである。散歩が思考をほどく時間だとすれば、ハーレーダビッドソンで走ることは、思考を研ぐ時間である。

肩書きの届かない場所

自らの判断に責任を負って生きてきた人ほど、その重さを誰とも分け合えないことを知っている。会社を率いる人も、暖簾を守る人も、自分の名で仕事をする人も、助言を求め、情報を集めることはできても、最後の一手だけは自分で打つほかない。正解の示されないまま決めなければならない場面が、いくらでもある。

ハーレーダビッドソンを走らせているときもまた、同じである。速度も、進路も、車線を変えるその瞬間も、すべて自分で判断し、その結果を自分の身で引き受けるほかない。ただし、そこには秘書も部下もおらず、肩書きや財産も何の意味も持たない。風も路面も、乗り手が誰であるかを問わない。その意味で、オートバイほど人を平等に扱うものはないのかもしれない。

走ることで身につくものもある。勇気と無謀は別物であり、自由と無責任もまた別物だということ。自分の力量を知り、状況を読み、必要とあれば速度を落とす。そのうえで、自分の意思で前へ進む。危険を美化するつもりは毛頭ない。危険を見極め、自らを律することこそ、乗り手に求められる第一の資質だと考えている。

日々、決断の重さを引き受けている人にこそ、肩書きを外し、一人の人間として風の中に身を置く時間があってよい。それは孤独から逃れるための時間ではなく、孤独と静かに折り合うための時間である。

影

決して忘れることが出来ない光景がある。特に高速道路を走っていると、太陽の角度によって、前方の路面にハーレーダビッドソンにまたがった自分の影が落ちることがある。その影を目で追いながら、長い距離をひたすら走り続ける。やがて道が大きく向きを変えると、影はふっと視界から消える。それでも私は消えていないし、ハーレーも走り続けている。目的地へ、あるいは家へ向かって、前に進むほかはない。

自分の姿がはっきりと見え、進むべき方向に迷いのない時期がある。一方で、自分を見失い、何を拠り所にすればよいのか分からなくなる時期もある。それでも時間は止まらず、人は進み続けるしかない。路面に現れては消える影を見ながら、私は幾度となく、自分という人間について考えさせられてきた。

往路と復路

かつて私は、1967年製と1970年代の古いハーレーダビッドソンに乗っていた。二台とも、心底惚れ込んだエンジンを搭載したハーレーであったが、いつ機嫌を損ねるか分からない相手でもあった。遠出をすれば、走ることそのものの緊張に加えて、果たして無事に帰り着けるだろうかという不安が、絶えずつきまとう。

そして、遠くへ行けば行くほど、家に帰りたくなった。私の身を案じて家で待つ妻のもとへ一刻も早く帰り着き、今日も無事に戻ったと伝えたかった。好き好んで遠くまで走っておきながら、帰路を急ぐのだから、矛盾した話である。そうして家に戻り、ひと息ついたかと思えば、数日もしないうちに、また風の中へ出ていきたくなる。我ながら、始末に負えない。

長い年月を経て、その往復の意味が、いくらか分かるようになった。人は一人になってはじめて、自分が一人では生きていないことを知る。何ものにも縛られないことだけが自由なのではない。自らの意思で遠くへ行き、自らの意思で大切な場所へ帰る。その往路と復路がそろって、自由ははじめて重みを持つ。仕事を持つ人にとって、帰る場所とは家族であり、共に働く人々であろう。遠くまで走った人ほど、その場所の重みを確かめて帰ってくる。

自らに問う時間

日々の役割を離れ、自分ひとりでしか過ごすことのできない時間を持つこと。それは、他の何ものにも替えがたい価値を持っている。日々の暮らしの中で、人はいつの間にか、役職や実績、築いてきたものによって自分を測るようになる。

だが風の中に出れば、そうした物差しは役に立たない。残るのは、自分がどういう人間であり、これからどこへ向かおうとしているのかという、飾りのない、ごく単純な問いだけである。単純ではあるが、生きていくうえで最も根本的な問いでもある。

ところが、背負うものや責任が増えるにつれ、人は目の前の仕事や決断に追われ、いつしかその問いを脇に置いたまま日々を過ごすようになる。ハーレーダビッドソンを走らせていると、そうした根本の問いに、自然ともう一度向き合っている自分に気づく。

カスタムとは何か

カスタムとは、ハーレーダビッドソンを一度分解し、フレームや外装、数多くの部品を作り替えて、世界に一台だけの姿へと仕立て直す仕事である。

1998年、私は横浜でBAD LANDを始め、以来、ハーレーダビッドソンのカスタムに携わってきた。

追い求めてきたのは、速さや性能を極めることでも、また人目を引くための装飾でもない。一台のハーレーダビッドソンを、自分たちの信じる美しさにどこまで近づけられるか。既成の形にとらわれず、どこまで自分たちの意思を形にできるか。その問いを抱えながら、作り、壊し、また作り直してきた。

作業効率を優先すれば本来は避けるべき手法や手間を、数え切れないほど重ねてきた。BAD LANDのカスタムハーレーが決して安価でないのは、そうして費やした時間と手仕事が、そのまま一台に宿っているからである。

今にして思えば、私たちがハーレーダビッドソンのカスタムを通じて育み、作り上げてきたのは、形そのものよりも、その一台とともに過ごされる誰かの時間であったのだろう。BAD LANDを選んでくださった方が、風を受け、路面を見つめ、エンジンの鼓動を身体で感じながら遠くへ走り、やがて帰るべき場所へ帰っていく。その人生の一場面に、私たちの手がけた一台があるとすれば、作り手として、それに勝る報いはない。

受け継がれる一台

一台のカスタムハーレーが形を成すまでには、長い月日を要する。構想を練り、部品を一つずつ作り、組み上げていく。そうして生まれた一台は、最初の乗り手とともに走り出し、その人の道のりを刻んでいく。だが、人の暮らしはいつまでも同じではない。仕事の転機や家族の事情、年齢とともに変わっていく身体。さまざまな巡り合わせから、愛着のある一台を手放す日は、いずれ訪れる。

そのとき、一台に宿っていた時間は途切れてしまうのだろうか。私は、そうは思わない。作り手が注いだ手間も、乗り手が重ねてきた道のりも、車体には確かに刻まれている。それを受け止め、新たな道のりを重ねていく次の乗り手がいれば、その一台の物語は続いていく。

これから新たに一台を仕立てるには、相応の歳月がかかる。けれども、すでに形を得て、次の乗り手を静かに待っている一台がある。その一台との出会いもまた、一つの確かな始まり方である。

次の乗り手へ

BL Collector’s Editionは、これまでにBAD LANDがカスタムを施してきたハーレーダビッドソンを、次の乗り手へ引き継ぐための取り組みである。一台ごとに異なる造形があり、製作に費やした時間があり、その造形を貫く哲学があり、そして、その車両だけが歩んできた来歴がある。それを「中古車」の一語で片づけるつもりはない。

あらかじめ申し上げておきたいことがある。カスタムハーレーには、一般の中古車のような定まった相場がない。年式や走行距離で測れるものではなく、その価値は、造形を理解し、心から乗りたいと願う人がいて、はじめて成り立つ。したがって、私たちはこれを投資の話として語ることはしない。

お約束できるのは、別のことである。お引き渡しの前には、私たち自身の手で点検と整備を行い、高速道路での実走行によって最終確認をする。遠方の方には、専用の輸送車でご指定の場所までお届けする。いずれ手放される日のことも、考えておきたい。カスタムハーレーの再販は容易な仕事ではなく、それを積極的に引き受ける店はほとんど存在しない。それでも私たちは、作り手として、その一台を誰よりもよく知る者として、次の理解者を探す役目を引き受ける。売って終わりにしないこと。それが、一台を世に送り出した者の責任だと考えている。

結びに

BAD LANDが手がけたハーレーダビッドソンは、万人に向けたものではない。美しさの受け止め方も、オートバイとの付き合い方も、人によって異なる。初めて乗られる方には、相応の訓練も必要になる。

それでも、この文章のどこかに心に留まるものがあったなら、一度、横浜のBAD LANDへ足を運んでいただきたい。写真では伝わらない佇まいがあり、エンジンに火が入った瞬間の音と振動がある。そのうえで、心から乗りたいと思える一台に出会っていただけたなら、私たちが積み重ねてきた仕事が、あなたの新しい時間へと引き継がれることになる。

ハーレーダビッドソンは、私に多くのものを見せてくれた。自分の弱さと不安、一人で決めることの重さ、自らの意思で進む歓び、そして帰るべき場所のありがたさ。

オートバイに乗るとは、遠くへ行くことで、自分自身と、自分が帰るべき場所を知ることなのだと思う。

BAD LAND
代表取締役 クワイケイイチ

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